2008年02月18日
封建制
封建制度とか言いますよね!
封建制(ほうけんせい)とは、中国など漢字文明圏における政治思想において主張された、周王朝を規範とする政治制度。転じて近現代になると西欧中世社会を特徴づける社会経済制度であるフューダリズム(Feudalism)の訳語にも援用された。このように、2つの異なる概念を指し示した語であるため、詳細はそれぞれの節に記す。
フューダリズム(Feudalism)とは、歴史学上、西欧中世社会を特徴づける支配形態のこと。「封建制」と訳出される。土地を媒介として国王・領主・家臣の間の主従関係が作られた。マルクス主義的な唯物史観においては、生産力と生産関係を基盤として歴史に普遍的な法則性を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みられた。この場合、おおよそ古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示す。
古ゲルマン人社会の従士制度と、ローマ帝国末期の恩貸地制度に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は契約を前提としたものであり、「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ、「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しない。また、両者の関係は双務的であり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されることもあり得た。
ただし、西欧中世においては、ノルマン人、イスラーム教徒、マジャール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった。(ただし、実際には各農村ごとにかなり相違があったと考えられている上、多くの農村では農奴だけでなく自由農民も相当数存在していた。)
ヨーロッパでのフューダリズム(封建制)が、外民族の移動・侵入などと強く結び付いて形成されたのに比し、日本の封建制はむしろ武士による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇を始めとする貴族は武士の権威を根拠付ける存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は流動的なものであり、「二君にまみえず」という語に示されるような主君への強い忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。
日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。鎌倉幕府の成立によって御恩と奉公からなる封建制が成立したとする説で、戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令社会の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成されたとみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。
日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。しかし、激しい反論を生み、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。歴史学の関心が拡散する中でこの論争は明確な解答を得ぬまま終息した。
日本の領主の封建制は「税の徴収権」に過ぎず(参照→職の体系)、つまり西欧に見られるような領地の私有と領民への農奴としての隷属的支配権は存在しなかったので、本当の意味の封建制は存在しなかったとする説もある。
(以上、ウィキペディアより引用)
日本の封建制を学びましょう!
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